取締役のスキル・マトリックスの作り方と活用法 ― 2026年改訂CGコードで問われる「説明できる取締役会構成」
取締役のスキル・マトリックスは、2021年のコーポレートガバナンス・コード改訂を機に、いまやプライム市場上場企業の9割以上が開示する「標準装備」になりました。しかし、招集通知に一覧表を載せることと、その表が取締役会の構成や選任の議論に実際に使われていることとは、まったく別の話です。2026年7月に公表された改訂コード(2026年版)は、原則の「スリム化」と「解釈指針」の新設によって、この問いをより直接的に企業に投げかけています。論点は「スキル・マトリックスを開示しているか」から、「スキル・マトリックスを通じて、自社の取締役会に必要な能力と構成を説明できているか」へ移りました。
本稿では、弊社が2021年に実施したセミナー「取締役のスキル・マトリックスの作成・活用法」の内容をベースに、その後の開示実態と2026年版コードの内容を踏まえて、スキル・マトリックスの「作り方」と「使い方」を整理します。
スキル・マトリックスとは何か ― 「持っているスキルの一覧」ではない
スキル・マトリックスは、次の2つの要素で構成されます。
- 取締役会が、経営課題の達成に向けて重要と考える知識・経験・専門性等の分野(スキル要件)を特定したもの
- 特定した分野について、各取締役がどのような強みや特性を有するかを明示したもの
実務上、最も多い誤解は、この順序を逆にしてしまうことです。つまり、いま在任している取締役のプロフィールから「戦略」「財務」「法務」といった項目を拾い上げ、それを並べて表にする。これでは「現在の取締役が持っているスキルの一覧」にはなっても、「取締役会として備えるべきスキルを、誰が担っているか」を示す表にはなりません。
出発点はあくまで、自社の取締役会として備えるべきスキルを定めることです。そのうえで各取締役を当てはめると、必然的に「誰も備えていない要件」や「一人に依存している要件」が可視化されます。この空白こそが、スキル・マトリックスが取締役会の構成や次の選任の議論につながる入口になります。
開示の現状 ― 9割が開示、しかし「理由」を説明しているのは1割未満
開示率は、この数年で急速に上がりました。2023年3月期決算企業2,327社を対象とした調査では、招集通知でのスキル・マトリックス開示率は全体で約72%、東証プライム上場企業に限ると約92%に達しています(髙須悠介「スキル・マトリックス開示の実態分析」横浜経営研究)。東証の集計でも、スキル・マトリックス等の開示を求める補充原則4-11①(2021年版)のコンプライ率はプライム市場で96.2%です(東京証券取引所・2025年10月、コード改訂有識者会議提出資料)。弊社が2021年9月のセミナー時点で日経225採用企業(3月決算187社)を調べた際は開示企業が48%でしたから、この間に「開示するかどうか」という論点は、ほぼ決着したといえます。
一方で、表の中身を見ると、多くの企業が似た項目に落ち着いています。前掲の調査によれば、採用スキル項目数は平均7.6項目(中央値7項目)で、頻出項目は「企業経営」「財務・会計」「営業・マーケティング」「グローバル」「法務・リスクマネジメント」の順です。これは弊社の2021年調査(財務・会計96%、企業経営・経営戦略94%、法務・リスクマネジメント94%、グローバル82%)とほぼ同じ顔ぶれであり、この4〜5項目は、いわば「どの会社にもある共通要件」として定着しています。
問題はその先です。同じ調査で、スキル項目を採用した理由を開示している企業は6.9%、スキルの定義を開示している企業は6.6%にとどまります。また、各取締役は採用スキルの平均5割程度に●が付いており、企業によっては8割に達するケースもあります。ほぼ全員に●が並ぶマトリックスは、「バランス」も「不足」も読み取れず、選任議論の材料にはなりません。
2026年版コードでの位置づけ ― 原則は抽象化、具体は「解釈指針」へ
2026年7月21日に公表された改訂コーポレートガバナンス・コード(日本取引所グループ)は、2015年の適用開始以来3度目の改訂です。改訂の基本方針は「形式から実質へ」であり、コンプライ・オア・エクスプレインの対象となる原則を抽象的・概念的なものに絞り込み、具体的・例示的な記述は新設された「解釈指針」に移されました。上場会社は、遅くとも2027年7月末までに、改訂版コードに基づくコーポレート・ガバナンス報告書を提出する必要があります。
スキル・マトリックスについては、2021年版で補充原則4-11①に置かれていた「スキル・マトリックスをはじめ、経営環境や事業特性等に応じた適切な形で取締役の有するスキル等の組み合わせを…開示すべき」という記述が、2026年版では原則4-13(1)の本文(取締役会は役割・責務を実効的に果たすための知識・経験・能力をバランス良く備え、多様性と適正規模を両立させるべき、という趣旨)と、その解釈指針(経営戦略に照らして備えるべきスキル等を特定し、取締役選任方針と併せてスキルの組み合わせを開示することが考えられる、といった内容)に再編されています。
「スキル・マトリックス」という語が原則本文から解釈指針へ移ったことを、「開示の要請が弱まった」と読むのは誤りです。原則が求めるのは「バランスの取れた構成」そのものであり、スキル・マトリックスはそれを説明する手段の一つに位置づけ直された、と理解すべきでしょう。言い換えれば、表を出しさえすればコンプライになる段階は終わり、「なぜこの構成なのか」を経営戦略との関係で説明できるかが問われる段階に入ったということです。
作成アプローチ① ― 経営課題から逆算する
スキル要件を検討する王道は、経営の方向性から逆算することです。弊社が支援する際は、次の4段階で整理します。
| 段階 | 検討内容 |
|---|---|
| 1. 背景(経営の方向性) | 中長期ビジョン、事業ドメインの変化、目指す事業規模など |
| 2. 経営課題 | 方向性を実現するうえで、経営として乗り越えるべき課題 |
| 3. 取締役会の役割 | その課題に対して、取締役会が果たすべき意思決定・監督の役割 |
| 4. 取締役会に必要なスキル要件 | 役割を果たすために、社内・社外それぞれに求める知識・経験 |
たとえば、グループ再編と事業ドメインの転換を進めるある企業では、「既存事業のビジネスモデル改革と新事業の立ち上げ」「グループガバナンスの強化」「次の規模の経営を担える経営陣の登用」を経営課題として置き、取締役会の役割を「グループ全体の意思決定と監督」「資源配分」「経営陣・取締役候補の選抜・育成」と定めました。その結果、社外取締役に求める要件として、一般的な「財務・会計」「法務」に加えて、「自社を超える規模の企業経営経験」「大規模M&A・事業ポートフォリオマネジメント」「経営人材の育成」といった、その会社固有の要件が導かれています。
別の製造業では、創業者CEOの退任を見据えた集団経営体制への移行と、複数のM&Aで抱えた異なる企業文化の統合がテーマでした。ここでは「事業承継」「指名・報酬委員会の経験」「コングロマリット経営への参画経験」が固有要件となり、社外取締役の候補者像が具体的に絞り込まれました。
このアプローチが機能するには、2つの前提条件があります。
- 経営の方向性と戦略が明確に存在すること。事業選択の基準、事業の「立地」と「設計」が定まっていることが必要です。「中期経営計画」があることと「戦略」があることは、必ずしも同じではありません。
- 取締役会が経営課題について同じ認識を持っていること。社内・社外を問わず、課題の内容だけでなく、その重要度や優先順位についても共通認識があるかどうかが問われます。
逆にいえば、スキル・マトリックスの検討を通じてこの2点が満たされていないことが判明するケースも少なくありません。それ自体が、取締役会にとって重要な発見です。
作成アプローチ② ― 取締役会の「形態」から考える
経営課題からの逆算が難しい場合や、まず土台を整えたい場合には、取締役会の形態(役割の置き方)から要件を考えるアプローチが有効です。スキル要件を「多くの企業で共通する要件」と「自社の固有性が高い要件」の2層に分け、前者を取締役会の形態に応じて選び、後者を経営の方向性から必要に応じて追加します。
| 取締役会の形態 | 主な役割 | スキル要件の方向性 |
|---|---|---|
| モニタリング型 | 経営の方向性と資源配分を決定し、個別の業務執行は経営陣に委ねて監督する。経営陣の選解任・評価・処遇を決める | 監督側の要件(ガバナンス、リスクマネジメント、監査・内部統制、サステナビリティ等)を中心に設定 |
| モニタリング+マネジメント型 | モニタリング型の役割に加え、特に重要性の高い個別案件は取締役会で意思決定する | 監督側・執行側の両方を組み合わせ、どちらの側面が強いかで強弱を付ける |
| マネジメント型 | 業務執行に関する広範な事項を議論し、最終的な意思決定を行う | 執行側の要件(同業界経験、営業・マーケティング、新規事業、IT・デジタル等)を中心に設定 |
たとえば「経営・戦略」「ファイナンス」「財務・会計」「組織・人事」はどの形態でも共通に必要ですが、「監査・内部統制」はモニタリング型で重視され、「同事業・同業界の経験」「営業・マーケティング」はマネジメント型ほど重みが増します。自社の取締役会が現在どの形態にあり、今後どこへ向かうのかを先に整理しておくと、要件の取捨選択に一貫した説明がつきます。
投資家が見ているのは「表」ではなく「背景」
スキル・マトリックスの開示先は、株主総会の招集通知が中心で、統合報告書やコーポレート・ガバナンス報告書で補足する企業も増えています。ここで意識すべきは、機関投資家の関心が表そのものにはない、という点です。弊社が2021年のセミナーで紹介した機関投資家の発言に、「スキル・マトリックスという図表の開示自体にはそれほど関心はない。なぜそのスキル要件を重視するのか、従来から変更したのか、その決定に至った背景(経営の方向性や戦略)を知りたい」というものがありました。前述のとおり、採用理由を開示している企業がいまだ1割に満たない現状を考えると、この指摘は今も有効です。
2026年版コードの解釈指針が、スキルの組み合わせを「取締役の選任に関する方針・手続と併せて」開示することを求めているのも同じ趣旨です。開示すべきは、戦略 → 取締役会に関する考え方 → 取締役選任の方針・手続 → スキル・マトリックスという一連の流れであり、表はその末尾に置かれる要約にすぎません。
見直しのタイミングと活用法
2021年に一斉に作られたスキル・マトリックスの多くは、その後、経営環境や取締役会の構成が変わっても、項目が当時のまま据え置かれています。見直しの契機として、少なくとも次の4つは意識しておくべきです。
- 戦略の変更(中期経営計画の改定、事業ポートフォリオの組み替え)
- CEOの交代や取締役の大幅な入れ替え
- 毎年の取締役選任(候補者の検討時に、要件の充足状況を確認する)
- 毎年の取締役会の実効性評価(構成に関する評価項目と連動させる)
また、スキル・マトリックスの考え方は、取締役会だけでなく執行側にも応用できます。執行役員や次期経営陣候補について「経営陣として備えるべきスキル」を定義し、現在の充足状況を可視化すれば、それはそのままサクセッション・プランや次世代経営人材の育成計画の骨格になります。2026年版コードが後継者計画への取締役会の主体的関与を原則本文に格上げしたことを踏まえると、取締役会と執行陣のスキル・マトリックスを連動させる意義は、以前より大きくなっています。
おわりに
スキル・マトリックスは、作ること自体が目的の文書ではありません。「自社の取締役会は、この戦略を監督し、この課題に向き合うために、どのような構成であるべきか」という問いに、取締役会自身が答えを出すための道具です。2026年版コードが求めているのも、表の有無ではなく、その問いに説明可能な答えを持っているかどうかです。もし手元のマトリックスが2021年当時のまま、ほぼ全員に●が並んでいる状態であれば、次の取締役会の実効性評価や取締役選任のタイミングで、要件の設定から見直すことをお勧めします。
弊社では、経営課題の整理からスキル要件の設定、取締役会・指名委員会での討議支援、開示文書の作成まで、スキル・マトリックスの策定・見直しを一貫して支援しています。取締役会の構成や社外取締役の招聘についてのご相談も含め、お問い合わせください。